YER’s エリュウの だからソリあげて、その後むき狂う vol2

Eyuu Sasaki

1.
幼稚園から小学生低学年の頃、よく遊んだ友達にター君という子がいた。
一つ年上だったためお兄ちゃんのような存在であった。
大きな家に住んでおり、よくそこで隠れんぼをしていたのを覚えている。
隠れんぼ一つとっても、そこにオモチャのトランシーバーを使って、隠れている人間と
探している人間が通信できるなど、一手間加えてくるところが“お兄ちゃん”だった。

ある日、ター君は彼の父親の部屋へと僕を誘った。ベッドの下から
段ボールを引きずり出し、そこから大量の本を取り出して見せてくれた。
小学校低学年、僕が人生で初めて出会うエロ本だった。

慣れた手つきで一冊選び、ベッドに腰かけて言葉少なに読みふける姿が、
正に“お兄ちゃん”だった。

半ばほっとかれている僕は、初めて出会う「性」に対し、未完成な興奮のようなものは覚えたが、どうして良いかわからず、とりあえずこの中途半端感をどうにかしようと、
「半ケツ」になった。半分だけケツを出した状態だ。

「性欲」とその「反応」(自慰や性行為)は、「本能」的な結果ではなく、「社会的学習」により後天的に獲得される、すなわち「社会化」の一種だという立場を、僕はこの時以来とっている。どこの誰に対してとっているか解らないが、とにかく僕はそういう立場だ。
つまり「性欲」は「本能」などではなく「社会的」、「歴史的」な産物だといいたい。
だから「性の社会化」前夜の僕、つまり、「性」に出会った時の「反応」すら学習できていない僕が唯一できることはとりあえず「半ケツ」を出すことだけだったわけだ。

 そうやって、僕は原始的な「性」に対する原始的な「反応」として、とりあえず
「半ケツ」になった。だがしかし、それだけでは芽生えた「性」は全く納得しない。
けれども、この時の僕には必ずしも「半ケツ」が全く見当違いの方法にも思えず、
むしろ相当おしいところをついている気になっていたのも事実だ。だからこそ、なんとかこの「半ケツ」状態から出発して何かをつかんでいく他はないと考えた。
“「半ケツ」状態から出発して何かをつかむ”という曖昧かつ意味不明な哲学の実践は、
非常に困難を極めたが、最終的にター君に「半ケツ」を見てもらうという形をとって行われた。
素直に「見て」と言えない僕は、ター君に問いかける事で視線をこちらに向けさせた。

「ねぇ、これ何かおかしくない?」

「なに?」と本から顔を上げて、初めて僕が「半ケツ」になっているのを知ったター君は
子供らしく爆笑しながら「うわっ!ケツ出てるやん!」と答える。

僕もいつものテンションに戻り「あぁ!これか、ホンマや!間違えた!」と返す。
「どう間違えるん!」と盛り上がりながら、いつもの子供の世界にもどってこられたと思ったが、時間がたつにつれ次第に二人はまたエロ本の世界に戻っていく。

するとまた抑えきれない衝動が出てきて、僕は静かに、確実に、人知れず、再び「半ケツ」になった。やはりおしい所まで来ている感じがするがこれだけでは物足りない。2回目はないと思いながらも、抑えきれず、またター君に見せながら聞く。

「ねぇ、これ何かおかしくない?」と。

再び同じ状況を目にしたター君は「だからケツ出てるって!」と同じように
笑ってくれる。
僕は「また間違えた」と照れて見せ、「やから何と間違うん!」と盛り上がる。

・・・盛り上がる。盛り上がるが、、、何かが違うような気がする。
こういうやりとりは違うという予感はあるが、なぜ違うのか理由が解らない。
深く考えた結果、「半分のケツだからいけない」と判断し、
「全部のケツ」を出してター君に再度問いかけることにした。

「ねぇ、やっぱり、これ何かおかしくない?」と。

「ねぇ」くらいから結果が解っているというように、吹き出しながら顔をあげるター君が
明らかに面積が広くなっているケツに不意を突かれ、「めっちゃ出てる」と声にならない
声で腹を抱えて笑っている。

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