「いい加減、自分で頭を張らなきゃって思った」――George BodmanがSTORM OF VOID、そして自らのわがままと責任を語るインタビュー!

STORM OF VOID

George Bodman と初めて出会ったのは、2009年頃、僕がとある音楽雑誌で新人の編集者だったときだった。夏フェスのヘッドライナーを務めるほどの大物のインタビューを、CorruptedのTシャツを着て通訳していたのが、とても印象的だった。
その後も彼とは通訳としてだったり、来日した海外アーティストのツアーマネージャーとしてだったりで、あちこちで顔を合わせるようになったし、何度かいっしょに仕事もした。彼がbluebeardやNAHT、そしてTURTLE ISLANDでギターを弾いてきた、実績あるミュージシャンであることを知ったのはもっと後のことで、僕にとって、彼は初めて会ったときからずっと「通訳のGeorgeさん」だった。
それに変化が訪れたのは、2013年。STORM OF VOIDの始まりだった。envyのDairokuや元FC FiVEのTokuといった、日本の音楽シーンの顔役を務めてきたバンドのメンバーとともに鳴らされるメガヘヴィ・ロックは衝撃的で、一発で虜になった。それからは頻繁ではなくともライヴに足を運ぶなか、いつしか僕の中で「通訳のGeorgeさん」は「STORM OF VOIDのGeorge Bodman」になっていった。余談だが、僕が30歳になったのを機に転職を決意したときも、温かい言葉で励ましてくれた。
そして去る9月にリリースされた待望のアルバム“WAR INSIDE YOU”。持ち前の鉛色のヘヴィネスに磨きをかけつつも、より人間的な叙情性や温もりも匂い立つ、素晴らしい作品だ。リリースから2週間ほど経過した10月初頭、11月からスタートするツアーの準備も着々と進む中、Georgeその人とのインタビューが実現。バンドのことはもちろん、これまでのこと、これからのこと、そして音楽にかける想いを、穏やかに、しかしたしかな熱を帯びた口調で語ってくれた。

text by MOCHI
live photo by Miki Matsushima

――この秋より、LIVEAGEにライターとして参加することになった望月です。George さんとは以前から通訳さんとしてのお付き合いがありましたが、こうしてバンドについてじっくりお話しするのは初めてですよね。個人的には、Georgeさんってなんだかんだキャリアが長い印象がありますけど、改めてこれまでの経緯を教えてもらえますか?

George Bodman(以下George):十代を名古屋で過ごしたんだけど、中三くらいから、学校を昼過ぎには抜け出して、スケボーやってライヴを観に行って、帰ってギターを弾いてっていう感じだったね。今池のHUCKFINNにとにかく通いまくってたし、クラストのパンクスからサイコビリーの人、ニューヨークハードコア系の人たちとか、全部そこに集まってたの。その頃、俺もストレートエッジとかユースクルー的なバンドをやっていたんだけど、スパイキーヘアで鋲ジャンの先輩にも可愛がってもらってたね。

――東京にはいつ頃出てこられたんですか?

George:母親が元々東京の下町の人で「本気でバンドをやるんだったら、東京に行きなさい。でもちゃんと大学に入らないと行かせない」って言われて、じゃあちゃんと受験して大学行きますと東京に出てきたのが、19歳のとき。でも正直、東京は名古屋と違って、ジャンルやシーンで細分化されているように見えて、わりと窮屈に感じてた。ただLESS THAN TVの人たちと出会ってからは、変わったかな。みんなファッションも聴いている音楽も、やっている音楽も自由な感じがした。それと、当時は西荻窪に住んでいたことも大きかったと思う。GOD’SGUTS、DMBQ、UGMAN EASTERN YOUTH、怒髪天とか、いろんな人たちと出会ったよ。あと当時はライヴハウスだけじゃなくて、スタジオとか、どこかの学祭とかで軽音楽部の部室みたいなところでenvyやnine days wonder、There Is A Light That Never Goes OutとかYOUR SONG IS GOODとかがライヴをやっていた。ひとつのジャンルだけにいることはなかったし、同世代のシーンというか、地下で盛り上がってる感覚はあったかな。

――そういった環境のなかで感化され、bluebeardやNAHT、TURTLE ISLANDと渡り歩いていくわけですね。

George:さっきも言ったように、俺はユースクルーやストレートエッジ系のバンドでギターを弾いたのがバンド活動のスタートだったんだけど、そのタイプのバンドのギターって、基本的にはパワーコードさえ弾ければOKじゃない(笑)。素晴らしいことだけど、それだけでは物足りなくなってきたときに出会ったのが、FUGAZIやQUICKSANDだった。元々GORILLA BISCUITSとかYOUTH OF TODAYだったウォルター(・シュレイフェルズ)や、MINOR THREATだったイアン・マッケイが、それまでの爆裂的な瞬発力のあるハードコアから、こんなリフやリズムをやるなんてありなのかって、なかなかの衝撃だった。その流れでTEXAS IS THE REASONとかSUNNY DAY REAL ESTATEとかを聴いて、ハードコアから音楽的にもう一歩成熟したことをやりたいと思って加入したのが、bluebeard。そのbluebeardが解散して、ちょうどTOY’S FACTORY からアルバムを出した後のNAHTに加入するんだけど、当時21、22歳の俺は「もしかしたらバンドで飯が食えるんじゃないか?」って、ちょっと淡い夢を見た部分もあったのね(笑)。で、わかっちゃいたけどバンドで生計を立てるのは簡単ではなくて、曲はどんどん作らなきゃいけないし、ライヴの予定も次々と入ってくる。でも金がないからバイトもしなきゃならない、そのなかで大学の講義も出なきゃならない…で、パンパンになっちゃって。大学も4年で卒業できないことになったから、ひとまず学業に専念するということで脱退した。

――そこから、まったく別のスタイルであるTURTLE ISLANDに加入する流れもすごいですよね

George:NAHTを辞めた後、名古屋時代からの友だちの竜巻太郎(NICE VIEW、Vampilliaほか)が「今こんなバンドやってるんだ」って、TURTLE ISLANDの1stアルバム“深海の水のように”をくれて、それが凄くカッコよかったんだ。で、悪い癖なんだけど、聴いたときに「すごくいいけど、もっとカッコよくしたいなぁ」と思って(笑)。バンドの拠点は愛知で、俺だけ東京に住んでて遠距離になるけど、自ら志願して加入した。おかげで、それまで縁がなかったいろんなアーティストやバンドと出会えたのね。THA BLUE HERB、DJ BAKU、サ上とロ吉、ジャムバンド系のDACHANBOやOKI DUB AINU BAND等で知られるトンコリ奏者のOKIさん、ハードコアパンクの大先輩PILE DRIVERやFORWARD、切腹ピストルズやT字路’s…本当にジャンルの枠を飛び越えて共演できたし、海外もスペインのバスク地方でスクワットを廻ったり、モロッコの国王主催のフェスに出たり、ニューヨークのファッションウィークで演奏したり…グラストンベリーとか、ヨーロッパのいろんなフェスにも出れた。何より、十何人っていう大所帯で音楽を作って旅に出るっていうのがまったく新たな感覚で、それまでのバンドよりもTURTLE ISLANDでは積極的に作曲にも関わるようになったの。でも4、5年前から「もっとヘヴィな音楽をやりたい」と思うようになって、それでDairoku君と結成したのがSTORM OF VOID。そして今はこれに専念するに至る…と(笑)。

STORM OF VOID

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