21年間の想いが溢れ出す!SOUL ASYLUM奇跡の来日レポート!!!

SOUL ASYLUM

2016/11/8 TSUTAYA O-EAST
text by Yoshinobu Yada
photo by Katsuki Mituhashi

1994年 私は高校生であった。

さかのぼること1991年、私はオヤジの仕事の関係で2ヶ月ほどアメリカのシカゴにいた。

世はNIRVANAの大ブレク中であり、私はシカゴの大型レコード店でNIRVANAのCDを買った。
そこから日本に帰り、グランジの一通りの流れを聴いた。

NIRVANA, PEARL JAM, SOUND GARDEN, ALICE IN CHAINS。お気に入りはPEARL JAMであった。高校のクラスで友だちが一人もいない状態の私であったが、こういった音楽のおかげでなんとか死なずに生きていた。グランジからR.E.M., Dinosour Jrと流れを掴んだ。
同時にTHRASH METALも聴いていたし、EPITAPHのメロコアバンドにも夢中になっていた。

そんなとき、深夜のTVから流れてきた心地よいサウンドがあった。SOUL ASYLUMの”Runaway Train”である。グラミー賞のベスト・ロック楽曲賞にノミネートされた楽曲ということで広島でも聴けたのである。その時の印象は「R.E.M.の流れを組むアメリカンロックだが、ファッションはグランジっぽいな」であった。そのPVは胸にのこり、アルバムを買い、佳曲がそろっているので気に入ってよく聴いていた。グラミー賞の流れか1995年頃にSOUL ASYLUMは来日していた。

そして、1996年東京に出てきた私は、東京のアンダーグラウンドパンクシーンにどっぷり浸かることとなる。
2001年に、私はTHIS WORLD IS MINEとLINEというバンドを結成し、アメリカのミネアポリスサウンドにたどり着き、THE REPLACEMENTSを神のように崇拝していた。HUSKER DU、THE REPLACEMENTS、SOUL ASYLUMがミネアポリスの看板バンドということで勝手に「ミネアポリス三羽ガラス」と呼んでいた。(これはジャーマンスラッシュメタルのSODOM、KREATOR、DESTRUCTIONで「ジャーマンスラッシュ三羽ガラス」と呼ぶ事をヒントにしている)

そう、1994年に出会ったSOUL ASYLUMを2001年に再度、違う角度で再発見し、私は彼らのカタログを集めた(中古で捨て値で売られているので集めやすかった)
そのとき”Let Your Dim Light Shine”というアルバムの冒頭の曲”Misery”の美しさにやられた。
私は憧れのバンドとして、”SOUL ASYLUM”という名を胸に刻んだ。

そして時は2016年。SOUL ASYLUMが21年ぶりに二度目の日本ツアーをするという。

私は居ても立ってもいられなくなり、どうにか彼らにコンタクトできないか考えた、、、
が、コネもなにもない人間なので、とりあえず、レコードをリリースしているVICTORと招聘元の会社にメールをして「インタビューをしたいと」伝えた。
VICTORは公開されているメールアドレスがなかったので「お客様相談センター」にフォームから熱い想いをメールしてみた。
一日たったころであろうか、なんとVICTORのSOUL ASYLUM担当のA&Rの連絡先を丁寧に教えてくれるメールが届く。世の中捨てたもんではない!VICTORのカスタマーサポートは最高です!

そして、LIVEAGEの趣旨、説明などをしていき、サイトを気に入って頂き、SOUL ASYLAMのフロントマン、デイヴ・パーナーとインタビューが出来ることになった。

こちらも体制を整える必要があるので、
通訳に大学の友人であり、SOUL ASYLUM好きな帰国子女、竜ちゃん、
写真はよくLIVEAGEの写真を撮ってくれる敏腕のミツハシ君の最強体制で当日を迎えることとなった。

ライブは7時からであったが、会場には3時に着き、竜ちゃんとインタビューの英訳文の最終確認などを行った。

デイヴ・パーナーに会える、ライブが観れる。20年間のこの想いを告白するような気持ちで数日間私はナーバスになっていた。レッドブルの消費も増え、下痢になった。

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