「この世界の片隅に」を観て、なぜ、こんなにも涙がこぼれるのか。

この世界の片隅に

text by Yoshinobu Yada

「この世界の片隅に」を観てボロボロと泣いてしまった。そんなことを呟いていると京都のBedというバンドの山口君から「広島出身の矢田さんなりのレビューをお願いします」というリクエストを頂いた。自分のルーツを一度整理するために筆を取ってみたいと思う。(が、作品のレビューには一切なっていません汗)

私の生まれ故郷は広島である。この映画を観て、色々思い出すことがあった。
その記憶が数珠つなぎにつながっていき、映画を観ている後半はほとんど泣いていた。

冒頭の主人公が広島の中心部から呉に嫁に行くシーンで私が生まれてから高校まで育った海田という町の「海田市」という駅がでてくる。
この時点でなにか、胸が苦しくなっていた。

私の母は1946年に山口県、徳山市で生まれている。
母の姉が話すには、幼少期、1945年8月6日に徳島の山の上の家から広島市の方向が光り輝き、目が眩むかと思ったそうである。それが原爆であった。

私は幼稚園の頃から非常に多くの時間、勉強をさせられていた。
母がいわゆる「教育ママ」であり、幼稚園児でありながら塾に通うということを経験している。「お受験」というやつである。
その甲斐あって、6歳で広島大学の附属小学校に入学することができた。
しかし、私の家のある海田市からは電車を乗り継ぎ、一時間かかるのだ。
小学1年生でありながら、毎朝、一時間かけて、電車を乗り継ぎ、小学校まで通っていた。往復で二時間である。
私は小学生一年から高校3年まで9年間「海田市」駅を使って広島大学の附属学校へ通った。

小学校は爆心地(原爆ドーム)から2.69キロの位置にあった。
同学年には被爆者手帳をもっているものいた。被爆2世、3世が普通にいたのである。
「この手帳あると、何回、病院いってもタダなんだぜ?」と自慢されすこし羨ましくおもった小学1年生の自分がいた。

講堂

現在の広島大学附属高、中学、小学校の講堂

その小学校には中学校、高校が併設されており、立派な講堂があった。

爆心地から2.69キロあっても生き延びたこの講堂は国の登録有形文化財として登録されている。
当時はその講堂は広島高等学校講堂とよばれていた、被爆時、27名の犠牲者(生徒含む)を出している。
http://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibakumap/spot/BD-0031.html
非常に頑丈な作りであったため、崩壊せず残り、被爆時は緊急の収容看護施設として被爆者が多く身をよせ、そこで治療したという。

別の場所にあった、もう一つの広島大学附属のルーツである広島高等師範学校では爆心地から1.3キロという近さであったため、一瞬で溶け、火災にあい、原爆による死亡者は即死または数ヶ月以内に死亡した者だけで教職員が19名、高師生徒が19名、附中生徒が15名、附属国民学校児童が13名で、計66名が亡くなっている。

今、色々しらべてみると、学童疎開で多くの学生の人命は助かったが、同じ学校の関係者が100名程度亡くなっている事実に驚く。

こういった事実は、実は入学から卒業するまで一切、先生から説明を受けることがなかった。
講堂は「被爆にも耐えた、立派な建物」であるという話だけであった。

ある時、講堂に学友数人と忍込み、講堂の屋根裏や、倉庫を探検したことがあった。
そこには被爆当時の散乱したガラスの破片やレコードや書物が散らばっていた。
原爆のリアルな感触や匂いがそこにはあった。

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