drumkanリユニオン、そして彼らの歴史

DRUMKAN

drumkanは、ツアー中心の活動へ移行していく。千葉、東京のみならず、地方へライブ遠征。そんな中、学業とバンド生活を送っていたゴローが、両立が困難となり脱退。バンドは振り出しに戻ることになる。その後、nahtの元ギターリストであった、ウッチャンを迎え、新たなスタイルで再始動をする。

この頃、ツアーで度々、京都を訪れていたdrumkanは、地元のバンドであるWorking class heroとの交流を深め、スプリットアルバムをリリース(STRT TODAY/NO CORD RECORDS)。精力的にライブを続ける一方、その後も何度かギターリストのメンバーチェンジが起こる。

2001年、新ギターリストとして、hap circleのギターヴォーカルである、アマノが加入。drumkanのヴォーカルサウンドが厚みを増す。その頃バンドは、下北沢の老舗音楽レーベル、UKプロジェクトと契約。プロデューサーに、上田ケンジ氏(ピロウズ、ケンジ&トリップス)を迎え、ベースレスのdrumkanに轟音とメロディアス、疾走感という新しいテイストを加えた作品「FAZE」が完成。パイロット曲となった「CAT」をはじめ、唯一無二の新たなるdrumkanサウンドが生まれる。「FAZE」を機に、バンドは露出を高め、あくまでライブにこだわり続けたdrumkanは、ツアーを中心に精力的に活動を続ける。

ツアーも無事に成し遂げ、インターバルも無いまま、活動はさらなる勢いを増していく。当時、テレビ東京にも番組を持つ、LIMITED RECORD(以後LR)からオファーが入る。drumkanは、LRのレーベルイメージを気にして、当初は断ることになる。とくに当時のメンバーは、海外アーティストへの影響からか、楽曲はもちろん印象の部分まで、細かなことに注力をした。その一方で、自由な方向性でできる、他のレーベルを探していたが、LR側の粘り強いアプローチは続いた。繰り返し話し合いを続ける結果、drumkanの「見せ方」や活動方法などを受け入れること、自身が運営できるレーベル(waver waver)を発足することを条件に、正式にdrumkanとLRの契約が締結される。

2002年、新たなアルバム制作に入る。これまで何度かプロデューサーを立ててきたが、初のセルフプロデュース作品となるミニアルバム「drumakn」が完成する。代表曲「something」、PVではマーシャルアンプを50台積み上げ、隠し様のない、臨場感あるストレートな世界観を表現する。この作品がきっかけとなり、メディア露出、さらには世界へ飛び出していくことになる。その頃メンバーは、USエモシーンに深く関心があり、影響を受けている海外バンドとの共演を熱望していた。

ある日、START TODAY 前澤氏から連絡が入る。
前澤氏「Elliottっていう、Revaration Recordのバンドを知ってる?」
ツガハラ「もちろん!大好きなバンドだよ」
前澤氏「日本に来たがっているんだ、drumaknで招聘してみたら?」
ツガハラ「やってみるよ!彼らを日本に呼んで、ツアーをする!」
こうして、右も左も分からないまま、drumaknの海外バンド招聘が始まった。

Elliottとは約2ヶ月間のメールでのやり取り(言語は翻訳ソフトなどを頼り、比較的順調にコミュニケーションがとれていく)、ようやく来日を迎えることになった。当日、空港で迎え入れた時には、メンバーは誰一人、英語が話せず、ジェスチャーのみで理解し合う、なんとも大変な事態であった。ツガハラは、海外バンドとも交流の深い、Endzweckのドラマー、uchuに通訳としてツアー同行を依頼。彼はElliottとdrumkanの間に入り、親交を深める重要な役割を果たす。この頃のdrumkanは、ベースレスに拘らなくなっていた。このツアーのタイミングで、新ギターリストととして、アキが加入。同時にサポートベーシストとして、スナガ(Ever Last,tribal chair)が加入することになる。

ツアーも終盤にかかった頃、ElliottのドラマーKevinから話があった。
Kevin「実はこの日本ツアーで、Elliottは解散をしようと思う」
ツガハラ「どうして!? せっかくこうやって仲良くなれて、俺たちも米国へ行ってElliottとツアーをしたいよ!」
Kevin「気持ちも分かるし、俺もdrumkanを米国に呼びたい。。。少し時間をくれないか?」
ツガハラ「わかった。米国に戻ってエージェントに相談してほしい」
その頃のElliottはRavaration Recordsに所属し、USエモシーンでは最重要バンドである。解散の情報が入れば、激震が走ることは間違いなかった。

1週間後、Kevinから連絡が入る。
「Elliottのラストツアーをするから、drumkanも米国に来て、一緒に周ってほしい。」
ツガハラ「わかった、行くよ。」
こうして、Elliottのラストツアーへ参加することになる。drumkanは同時に新作を作り始めていた。Elliottの日本ツアーから、アキが加入したことで、サウンドはよりUSエモ色の強い楽曲へ傾倒していった。また、米国でのレコーディングも切望していた。新たなサウンドメイキングに、アメリカ大陸の大きく乾いたサウンドを求めていた。当時、Kevinはスタジオを所有し、プロデューサーとして活躍していた。drumkanはKevinに自作のプロデュースを依頼、Kevinは快く引き受けてくれた。

2004年渡米、Elliottのラストツアーに参加する。東海岸を約2週間ほどかけ、バンドワゴンを走らせ周って行く。
メンバーは、初めての米国ツアーに期待と興奮を隠せなかった。シカゴ、デトロイト、オハイオ、ニューヨーク、ボストンなど、全9箇所の町から町までの移動はとても長く、ライブハウスのみならず、バーや教会など、会場に着くと機材を降ろし、サウンドチェックも無い、ぶっつけ本番。過酷な状況でのライブ演奏を経験する。ツアーバンドとしての姿勢をあらためて作られた礎となった。このツアーには、Elliottと同じケンタッキー出身のバンド、Your black starも参加し、全日程を3バンドで周る。そして最終日、フィラデルフィアの教会ライブを最後に、Elliottはその活動の幕を降ろした。
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