気配がもたらす孤独と熱狂—インディーバンド的宇多田ヒカル「Fantôme」論 by bed 山口

宇多田ヒカル "Fantôme"

話を「Fantôme」に戻そう。今作でも宇多田ヒカルは作詞、作曲、編曲、プログラミング、ストリングスアレンジ、ブラスアレンジまでも自ら行っているので、最早制作のイニシアチブは完全に彼女が握り、先導しているのだと想像がつく。曲順に関しても、これまでは制作チームから投げられた案を揉んで調整する形だったようだが、今作は完全に宇多田ヒカル本人が組んだものであるとのこと。今作くらいシンプルな音数になったことで余計にその作家性の凄みが伝わるのだ。インディーバンドマン的にいうならばやはり「どこまでデモ段階で作り込んでるんだ?」と想像しながら聴くのがめちゃくちゃ楽しい。余談だが以前NHKドキュメンタリーでB’zが特集された際、TAK松本氏の作成したデモが少し流れたことがあり、それが恐ろしくシンプルなリズムトラックにギターが乗っただけのもので衝撃だったことがある。

今作はコラボ曲も話題だが、インディーバンドマン的聴きどころが多い曲は椎名林檎とのEMIガールズ復活となったM4「二時間だけのバカンス」と、小袋成彬をfeat.したM6「ともだち」だろう。
「二時間だけのバカンス」に関してはクレジットにそのまま従うならば、椎名林檎的コード感の世界に宇多田ヒカルが敢えて踏み込んでみせた凄さというべきか。イントロのギターのアルペジオすら宇多田ヒカルが作ってきたのではないかと想像するとまた楽しい。この曲の白眉はとにかくメロディーの流れだ。ボーカルをRECしたことのある方なら分かるだろう、母音を意識したライミングと、メロディーのハマり感。めちゃくちゃ難しいことをほんとに笑い出したくなるくらいに気持ち良く聴かせてくれるのがこの曲のサビ部分。

朝昼晩と頑張る 私たちのエスケープ
思い立ったが吉日 今すぐに連れて行って

au、eu、iuとuで脚韻を踏んでいき、
今aすuぐuに で止めて、「連れて行って」を一息で、というように、母音を強調した歌い方をしているのだが、この母音への到達がジャストで、まるでパズルをはめていくような気持ち良さがある。
クローズドリムショットでピンと張りつめたように進行する前半部から、広くて柔らかい声質で歌う宇多田ヒカルと、ナチュラルにコンプがかかったような椎名林檎のザラついた声が混じり合う後半サビ、Cメロの展開はとにかく2人がボーカリストとして楽しみまくっているのが伝わる。圧巻だ。

M6「ともだち」は一転して非常に抑えたアレンジ。ループするビートとギターのフレーズはまるでtoeの近作に収録されていてもおかしくない旋律と空気感だが、被さってくるブラスアレンジ(これも宇多田ヒカルが手がけている)によって表情豊かに展開していく。この曲は宇多田ヒカル自身のコーラスワークが最小限に抑えられていて、小袋氏と二人で歌っている世界観を強調する作りになっているところが歌詞世界も含めて興味深く、アルバム中盤のアクセントにもなっている。

その他の曲でも例えばM4「人魚」。JOANNA NEWSOMのような序盤から、3:10〜曲終わりにかけてドラムのパンニング位置が極端に変化するところはその音の質感も含めてBATTLESなんかも想起させる。BATTLESの初来日ライブw/THE MARS VOLTAの楽屋に宇多田ヒカルとB’zの稲葉がいた話は有名だ(その後Utada名義でのアルバムにTHE MARS VOLTAのジョンセオドアが参加)。
そして何よりまたこのドラムの音が恐ろしく良い。今作は、「花束を君に」とこの「人魚」のドラムの音が本当にリッチで素晴らしい。

それともう一つ触れなければならないのはもう宇多田ヒカルの専売特許とも言えるコーラスワークだろう。すべて自らが行うことは有名だが、高い音から低い音、今作では吐息(「花束を君に」のオープニングサビ前は鳥肌)まで意識して使っているというのだからもう驚愕の域。メインボーカルを抜いたコーラスだけの音源とかがあるなら絶対聴きたい。それでも最高の名盤だと思う。

Fantômeは、KOHHをfeat.した「忘却」から、この位置に置くことの違和感までもが示唆的かなどと深読みしてしまう「人生最高の日」を経て、「桜流し」で終わる。インタビュー等によれば、「桜流し」が終わり、「道」に戻るループ感を強く意識したという。「桜流し」はもう4年も前の曲だし、アレンジも今回のアルバムの中ではかなり浮いてしまっている気はするけれど、喪失感から再び歩み出す、という意味でも収録したかったのかな、などと考えてしまう。
KOHHは従来の宇多田ヒカルリスナーには大きな違和感を残したかもしれないが、それこそが意図したものなのではないかとすら思うし、このコラボレーションも大成功だったはずだ。お互いシンパシーを感じていたというが、パーソナリティはもちろんシンプルな言葉を強く人に届ける天才として惹かれあったのは強く納得出来る部分だ。

とかくパーソナルな部分が語られがち(もちろん宇多田ヒカルという存在自体が時代を背負ってしまっているのでそうなるのも仕方ない)な今作だけど、これだけ軽やかに、そして音楽を聴き作る喜びを感じさせてくれる奥行きも持った作品が圧倒的マジョリティとして鳴らされていることに拍手を送りつつ、次なる宇多田ヒカルの動きを待ちたいと思う。音楽家としての宇多田ヒカルのそれこそ「道」はまだ始まったばかりなのだろう。
かくして、また聴く度に発見のあるこの作品を僕たちは聴き続けるだろうし、
J-POPのフィールドで高らかにこれだけのクオリティのものが鳴らされてしまう事実に打ちのめされ、幸せを感じつつ、一介のインディーバンドマンである僕らはまたコツコツと曲を作り続けるのだ。次のアルバムはコーラスワークをもっと突き詰めないとな…。

bed 山口将司

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