YER’s エリュウの だからソリあげて、その後むき狂う vol3

Eyuu Sasaki

それから十何年が経過し、僕は大学生となった。そしてそこで、「金玉くさい愚か者」
が立ち上がった現場のダイナミズムを捉えた(と僕は解釈する)著作に出会う事になる。
ミシェル・フーコーというフランスの哲学者の著した『言葉と物』だ。この冒頭に引用
される古い「中国のある百科事典」では「動物」を次のように“a”から“n”の14個に
分類できることを教えてくれるのだが、いきなり“a”からして危険なニオイをだす。

「a.皇帝に属すもの、」

動物の分類として、いきなり皇帝ときた。
またそこに属すとは一体どういう事かわからないまま事典はこう続く。

「b.芳香を放つもの、
c.飼い慣らされたもの、」

そして、いきなり現実感たっぷりにこう言い切る。

「d.乳のみ豚、」

この着陸とも墜落ともつかない急降下と、やけにM心をくすぐる言い回しに
ドキドキしていると、事典は「現実」感を突如放棄する。

「e.人魚、
f.お話に出てくるもの、」

何となく「あぁ、そういうこと!いわゆるファンタジーね」と、
方向性が見えたと思いきや再び急降下する。

「g.放し飼いの犬、」

一体なんなのだろうか?
またなぜいちいちM心をくすぐるのか?いやそれはいい。
そして混乱はどんどん深まる。一気に見ていこう。

「h.この分類自体に含まれるもの、
i.気違いのように騒ぐもの、
j.数えきれぬもの、
k.駱駝の毛の極細の筆で描かれたもの、
l.その他、」

「その他」という、“普通”は「分類の終了」の位置にくるはずの項目の後も、
何事もなかったかのように続けていく。

「m.今しがた壷をこわしたもの、」
「n.遠くから蝿のように見えるもの、」

一体これは何をいっているんだろうか?
・・・というのは至極当然の反応だが、
フーコーはこの違和感を「我々の思考を可能とするもの」の変遷に求めた。
つまり「上記のような思考を可能とするもの」と、これらを奇妙と感じる「現代の我々の思考を可能とするもの」は異なっている事を、各時代の絵画や書物を、まるで考古学のように掘り進める事で、思考が埋もれている特徴的な地質を明らかにしていく。

しかし、この著作にであった学生の頃、僕の興味は本編よりも、この分類の“o”以降の
項目の存在に向かった。もちろんこの「中国のある百科事典」の分類は“n”で終わっている。だが、それでもなお“o”以降が存在している気がしてならなかったのだ。
なぜこんなに“o”以降に惹かれるのか? なぜこんなに確信めいて“o”以降があると
感じるのか?来る日も来る日も考えた。

そしてある日「いや、僕は既に“o”以降に出会っていたのかもしれない」と感じた瞬間、
十数年の時を超えて、祖父の低い声が呼びかけてくるのを感じた。

「o.金玉くさい愚か者、」

そして戸惑う馬場さんの声も記憶のそこから夢のように響く。

「p. 私ですか?と問いかけるもの、」

とても懐かしい声だった。
この芳醇な思考の外側がうっすらと見えるような、その痕跡に、僕はただただ涙した。

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