2.
そこから約10年経過した自分が高校生3年生位の頃、
父の机の中が無性に気になり、引き出しをこっそりとあけて覗いてみたことがある。
「反抗期」というのか、親への訳の解らぬ苛立ちの猛威が収束しつつある頃だったはずだ。
そういった中で、ふと冷静になり、そもそも父親とは何者なんだろう?
と思いだしたのかもしれない。
深夜、家族が寝静まった頃に、父の机の前にいき、ゆっくりと引き出しをあける。
机の材質である木がこすれる音に、秘密を共有する者同士が持ち得る親密さのようなものが
含まれているのを感じた。
それに反して自身の内から聞こえる動悸は、妙によそよそしく、僕を告発し続けているようだった。
汗ばんだ手で、引き出しの中を探っていると、奥に裏返された写真の束が見えた。
少し黄ばんだ印画紙の右下に、鉛筆で「しず」と書かれているのが目に飛び込んできた。
様々な可能性が頭をよぎる。
例えばそれが、母親以外の、父と関係が深い女性の写真である可能性もあれば、
考えたくもないが、父母の「熱烈投稿写真」である可能性も捨てきれないわけだ。
深夜の父の机の前で自問自答したのを覚えている。
何が写っていても耐えられるか?壊れないでいられるか?
僕の社会学的な意味での「自立」の「通過儀礼」の仕上げは間違いなくここで始まったのだ。
仮面をまとった呪術師達が、大きな火のまわりを踊り狂い、「成人の儀礼」の代替として
「写真を見ろ!」と叫び続けるのを感じた。
その声におされるように写真を思い切って見ることにした。
「自立」を選び、呪術師達と儀礼の興奮はピークに達した。そして僕は驚愕した。
あまりにも想像外の物がそこにあったのだ。
そこに写っていたのは至近距離から撮影したであろう「歯茎(はぐき)」であった。
いや、あくまで写真の束の一番上がそれであって、この後どうとでも展開しえると、
気を取り直してめくってみるが、しかし次を見ても、その次をみても
ひたすら誰のものかわからない「歯茎」が写っていた。
数十枚の写真を一つずつ見ていったが、被写体は一向に変わらず「歯茎」であった。
こんなにたくさんの「歯茎達」に真夜中囲まれる経験など、当たり前だが、初めてで、
どうしたら良いかわからず、しばし呆然としていた。
呪術師達の熱狂も気まずさに変わっていて、たき火の後始末を始めている、そんな雰囲気だ。
そして最後の写真、つまり「しず」と書かれたものを見ると、
そこには見ず知らずの着物を着た女性が写っていた。
明治時代に撮られたような相当古い白黒写真の複製であった。
最後まで「歯茎」であればまだよいが、白黒の「明治時代の女性」とセットで
保管されている事が、さらに僕の混乱を深くした。
かくして全ての意味と、「自立の通過儀礼」の成否が曖昧なまま、秘密の引き出しを僕は閉じた。
引き出しのこすれる音は、木の摩擦音以上の意味をもはや失っていた。
その数日後、家族そろって夕食となった。
歯茎と着物女性の写真が気になりながらも、普段であればモノも言わず、
食べるだけ食べて自分の部屋に籠るところが、
家族の会話に積極的に参加しようという気になっていた。
先の「通過儀礼」のおかげかもしれない。
父親、母親の発言に相槌をうちつつ自分からも話題をきりだす。
「昔、めっちゃ鳥を飼いたかったのに、オバさんに凄い理由で拒否されて」
「なんでや」父親が笑いながら尋ねる。
「なんか歯つつかれるとか、訳わからんこと言うてきて」
そう笑いながら発言したところ、ビクッ!と、父親の穏やかな顔が一変し、
僕を凝視する目に恐怖の色さえ浮かべて驚愕しているのがわかった。
あまりの変化にこちらも驚きを隠せないで戸惑っていると、
「お前」と、父親が深刻そうに尋ねる。
「お前、心臓悪いんか?」
質問のタイミングも内容も、全く意味がわからず、つい笑い出してしまった。
そもそもこれは「YES/NO」で答える質問なのかどうかも分からないまま答える。
「別に心臓悪ないよ。多分。なんでよ?」
理由を聞くと、「僕の歯茎が父親が思っていたより黒いから」という答えが返ってきた。
息子にどれだけ局所的なイメージを持っているんだと、再度吹き出しそうになったが、
すぐさま、特に悪くないと思っていた心臓が、一気に悪くなりそうな勢いで鼓動を打ち出したのがわかった。
何てことだ。またしても「歯茎」だ。指先に秘密の引き出しの感触がよみがえる。
大量の歯茎の写真と、明治女のしずが強烈によみがえる。ほとんどオカルトだ。
ついでに馬場のちい子に扮するオバの、鳥に歯茎をつつかれている熱演までが頭をよぎる。
一気に食欲をなくした僕は、「ごちそうさま」と力なくいって、自室にもどる。
そして鏡で自分の歯茎、父親が思っていたより黒いという歯茎をうつしてみた。
そして考えた。
一体この突如立ち上がった「歯茎」で貫かれたような世界の秩序は何なのだろう、と。
僕はそれからとても長い間、歯茎を眺め続け、そこに「意味」を見つけようとした。
けれども、僕の「思ったより黒い歯茎」は沈黙し続け、「歯茎でない可能性」を示唆することは、最後までなかった。